ターター・パルミエリ(Tah Tah Palmieri)は1959年3月5日、ニューヨーク州ブルックリンのベッドフォード=スタイべサントで、プエルトリコ系のエクトル(Hecter)とトリニダード・トバゴ出身のマリア(Maria)の23番目の息子として生まれた。

 
後のインタビューでマリアはターターという名前の由来を問われ、
「あの子は生まれるのと同時に、ター、ターってとっても可愛らしい声で歌いだしたの。だからよ」
と答えたが、それはインタビュアーを喜ばせるためにその場ででっち上げた、デタラメだった。
 当時なぜ彼をターターなんて名付けたのか、マリアはこれっぽっちも思い出せなかった。23人目ともなると、まあそうしたものであった。
 けれどもターターと歌いだしたという作り話は、我ながらなかなか悪くない、とマリアは思った。

 ターターの誕生をことほぎ、8人の姉は彼に嫌というほどキスを浴びせ、7人の兄はパンチとキックを喰らわせ、残りの者は別に何もしなかった。まあそうしたものであった。
 それから家族みんなで、楽器を演奏しながらお祝いの歌を合唱した。
 パルミエリ家は揃いもそろって、音楽が大好きだった。マンボやカリプソではなく、一家はいつもリズム&ブルースを歌い踊っていた。

 売れないラテンバンドのトロンボーン奏者だったエクトルは、音楽と同じくらい、場合によっては音楽よりもだいぶ、お酒が大好きだった。
 ターターが生まれるより少し昔のある夜、エクトルはいつものように遅刻ギリギリでステージに上がった。けれどバンドはいつもの仲間じゃなく、見知らぬアフロ・アメリカンたちだった。酔っぱらって、別のお店に行ってしまったのだった(へべれけで、トロンボーンを帽子のように頭にかむっていた)。だけど、始まった演奏とグルーヴに、長い金管とエクトルの心臓はビリビリと震え続けた。


 これこそが、エクトル個人にとってではなく、ポップミュージックの歴史における、重要な運命の出会いの瞬間であった。
 以来彼はリズム&ブルースに心酔し、パルミエリ家のラジオのチューナーは接着剤でがっちりとブラックミュージック専門局に固定され、二度と他局を聴くことは許されなかった。
 

 一家は音楽が大好きではあったが、みんな、そんなに上手ではなかった。

                    


 若桑井幸子(もぐわいさちこ)は1979年5月17日、宮城県仙台市で、共に公務員である二郎と愛子の一人娘として生まれた。



 誕生に関するエピソードは、特にこれといって何もなかった。
 けれど二郎と愛子は彼女が生まれて、本当に幸せだった。彼女にも、自分たち以上に幸せになって欲しいと心から願った。なので彼女を幸子と命名した。あまり遊び心のない、まあまあ真面目な夫婦だった。

  若桑井がちょうど1歳になった頃、一家はドライブをしていた。
 するとたまたまカーラジオから、当時グループから独立し、ソロデビューして間もないターターの大ヒット曲「K.P.P.」(邦題「キスとパンチと無関心」)が流れ出した。
 ターターの歌がそのサビである「僕にキスして、ちょっとだけならパンチもいいよ、でもパッシングはしないで」(邦訳)に至ったその時、なぜか若桑井はウヒャヒャヒャと笑い出し、オシッコとウンコをどっさり漏らした。 
 これが若桑井が初めて耳にした、ターターの歌声だった。

 けれども音楽にまったく興味のない父はすぐに大相撲中継にチューニングを変え、下の世話に大わらわの母も沢田研二がちょっと好きだったが洋楽のことは何も知らない人だったので、この出会いのことは、若桑井本人を含め、誰の記憶にも残らなかった。

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及川章太郎

おいかわしょうたろう 宮城県生まれ。脚本家、作家。主な作品に映画「東京ゴミ女」(00)、「せかいのおわり」(05)、ドラマ「I LOVE YOU」(13)、絵本「ボタ福」、小説「ハリ系」他多数。仙台市在住。

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伊津野果地 KAJI IZUNO

いづのかじ イラストレーター、アーティスト。立体・平面作品の制作の傍、書籍、主に児童書の挿画を手がける。長野県安曇野市在住。


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