80年代、20代となったターターはソロシンガーとして最初の黄金期を迎えた。
シングルやアルバムはグループ時代の5倍を売り上げ、世界中のチャートを席巻した。
その人気は日本でも高まり、ターターは破格のギャラでカップ焼きそばのCMに出演した。(彼はその味に惚れこんでしまい、後にカップ焼きそばのことだけをテーマにした「One Nation Under The Yakisoba」という3枚組アルバムをカップ焼きそばのみを食べながら制作した。売り上げはもう一つだったが、これこそがターターの最高傑作だと評価しているマニアも少なくない、裏名盤と言われている。)
ターターはこの10年の間に3度の結婚と離婚を繰り返し、それぞれの妻との間に子供も産まれたが、彼らも皆、妻と共にターターのもとを去って行った。
離婚の原因は、すべてターターにあった。
一度音楽制作に入ってしまうとあまりにも没頭して、家族のことを完全に忘れ去ってしまうこと(彼は、365日のうちの350日ほどを音楽活動に費やしていた)。
相変わらず押し寄せてくるイナゴたちの中に、妻よりも自分を理解してくれる、ような気がする、相手を見つけてしまうと、どうしてもコチョコチョせずにはいられなくなってしまうこと。そしてその他諸々。
離婚裁判のたびに、ターターは完膚なきまでに敗訴した。
彼の銀行口座には毎日のようにドッスンと地響きがするほど巨額の、印税その他の金銭が振り込まれていたが、負けるごとに慰謝料として残高はスッカラカンになった。
ビバリーヒルズに建てた変な形の豪邸の中で一人きりになると、ターターはまた赤ん坊のように大声で泣いた。
彼にはたくさんの音楽仲間と取り巻きとガール(やボーイ)フレンドたちがいたが、親友と呼べる者は、一人もいなかった。
繰り返される離婚はそれなりのスキャンダルとして話題にはなったが、しかしターターの人気は一向に衰えなかった。
彼が作り、歌う歌が、ますます魅力的になっていくばかりだったからだ。
98年、若桑井は東京の中くらいの偏差値のとある大学の商学部(を目指していたわけではなかったが、にしか受からなかった)に入学した。
伊空戸(いぞらど)先輩という彼氏も出来て、二年後に別れた。
若桑井の提案で無理矢理先輩を同行させ、深夜の小さな動物園に二人で不法侵入しようとして、危うく警備員に捕まりそうになったことがフラれた原因かどうかは、彼女にはわからなかった。
失恋してまた自分は泣くのだろうと若桑井は覚悟したが、CDウォークマンでターターの音楽を聴く(ヘッドフォンで聴かないと、アパートの隣のおばさんに壁をドンドンされるので)と、不思議と気持ちが落ち着き、涙は出なかった。
ターターの歌は、いつも若桑井のそばにあった。
就職時期を迎え、若桑井は迷わず80年代にターターをCM採用した大手食品会社と、ターターの国内盤をリリースしている大手レコード会社を目指し、かなり本気で頑張ったが、どちらも最終面接にもたどり着けなかった。
結果的に若桑井は地元に戻り、仙台を拠点にしているそこそこの食品会社に事務職として採用された。あまり美味しくはないが一応オリジナルのカップ焼きそばを一番の売りにしていることが、そこを選んだ理由だった。
この氷河期に「ちゃんとした」ところに潜りこめただけで大したもんだ、と周りは喜んでくれ、常にはしゃがない父でさえも、ほんのちょびっとだけ小躍りした。
小規模の入社式でよぼよぼの会長の何を喋っているのかちっともわからない挨拶を聞きながら、ようやく若桑井は気づいた。
そう言えばわたしは、ターターが好きなのであって、カップ焼きそばは別にそんなに好きじゃなかった。
なのにわたしは、どうしてこの会社に入ったのだろう?